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最近はブルセラショップもますますブルマーの入荷が大変になっているみたいで、どこもブルマーの仕入れに励んでいるようなことをアピールする文が目立ってはいるが、ブルセラショップがファミリースタジアムのように、いつの間にか正式名称がファミスタになってファミリーという単語はどこかに行ってしまったかのような扱いを、ブルマーに対して行わないことは賞賛に値するかもしれない。 略語であるとはいえ、ブルマーという言葉がブルセラという単語の中で生き残り続けるのは悪いことではないだろうし、ブルマーが無かったらブルセラもここまでしぶといものにはなっていなかったはずだ。 ブルセラが始まる前からセーラー服を集めるマニアは存在し、そういう商売は成り立っていた、それがブルセラとして表舞台に出てきたのは、やはりブルマーの力に寄るところが大と言わざるを得ない。 セーラー服に比べて女子が在学中でも気楽に手放せ、いくらでも追加で買える上に、ぞんざいな扱いをしても惜しくない安さと価値の無さでありながら、セーラー服よりもはるかに女子のデリケートな部分に密着するという事実は、まさに女子のブルマーに対する気持ちとは反比例のものを男に与えるというわけだ。 男が手に入れるにはあまりにも異様で怪しいブルマーが、世の中に当たり前のように、溢れんばかりに存在していた時代は、今にして思えばとてつもなく異常だったのかもしれない。ブルマーが視界に入らない日は無いというぐらい、ブルマーは世の中に乱れ飛んでいた。 あの頃のブルマーが、今はブルセラショップを見回してもほとんど目にすることは出来ない。ブルマーが無いわけではないのだが、あの頃のブルマーが見当たらないのだ。 女子はみんな穿いてるブルマー。どこにでもあるブルマー。変わり映えのしないブルマー。普通のブルマー。それはもう無い。有るのはこんなの見たこと無いようなブルマー。ブルマーらしからぬ形のブルマー。ちょうちんブルマーに、レア物ブルマー。ファスナー付きのブルマーなんて物まである。 しかしブルマーにレアというものが必要なのだろうか。いつどこで誰が穿くのか想像も付かないようなブルマーがブルマーなのか。ブルマーに求められるのはどれだけ簡単に目にすることが出来るかという安っぽさと、大量に世の中に存在している価値の無さなのだから。 ブルマーは変わり映えのない、どこにでもある、学校指定の女子はみんな穿いているブルマーで良いのだ。そんな大量に存在するブルマーなのに、男の手には入らないという環境こそがブルマーの価値を高め、何より好きな人が穿いている事でブルマーは真のレアとなるのだ。 「このブルマーはもう10枚しか現存しない」なんてものはブルマーにとってはレアではない。「破れたり無くなったりすればまた買えばいい」程度の安っぽいブルマーを虹野さんが穿いている事がレアなのだから。 むしろ虹野さんがレアなブルマーを穿いていて、それがどうかするだろうか。貴重なブルマーをおっかなびっくり穿かれていても萌えることは全く無く、普段通りのどんなに尻餅をついても心が痛まないブルマーを大きなお尻でピチピチにしてドタバタしている虹野さんでなければ困るだろう。 ブルマーはまず大量生産されていることが大事であり、形も普通のものでなければならない。だからこそ誰が穿いたかという事実がより引き立つのだから。 |
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